昔、行基菩薩様が仏法をおこすための旅を続けられ、たまたま津保谷の盆地へ入られた時のこと。

「何と見晴らしの良い処じゃ。ここが鏡山か」

行基様は、赤土に錫杖を立てられた。すると、

「ブクブク、ブクブク、ブクブクブクブク」
水がふきだし、やがて池ができた。

「ここにしばらく留まって見ようか」
やがて、池の周り一面に薬草が芽を出し花を咲かせた。

「ああ、何と敬けんあらたかな土地じゃ。まるで極楽浄土に立っているようじゃ」
行基様は、両手を空に向かって大きく広げられた。

「この薬草を皆の為に役立てよう」
行基様は、病で伏している者を見舞い、薬草を煎じて快癒させられた。行基様をお慕いする者が近郷近在からたくさん集まって来た。

「水田を開いて米作りをしよう」
行基様は、農民に働く喜びを与え、そのかたわら自らは、五尊仏(阿弥陀如来。観音。勢至。毘沙門。不動)を刻み続けられた。

「五尊仏は、極楽宝殿に安置出来た。眼前には、平安浄土を実現した。これで、わたしは満願の心の願いが果たせたように思う。この地を『宝鏡山・満願寺』と命名する」

これが満願寺の発祥といわれている。

満願寺には、文明年間(一四七〇年頃)後土御門天皇の頃のこと。『伝教大師作』と言われる『千手観音』が安置された。

一方、山県郡の春近村の慈恩寺に『護治本尊、恵心作」の「阿弥陀三尊」があり、どうしたわけか、『千手観音』と交換して安置された事もあった。

「あの『三尊仏』は、国宝級じゃ。大そう立派な仏様が入られたものよのう」
「ありがたや。ありがたや」

人々は、特別にこの仏様を尊んだ。三尊仏のうわさは、方々に伝わった。

その後、時が移り、満願寺は、一時さびれ果てて空き寺になったことがある。

ところが、ある時、大事件が持ちあがった。

「わっしょい。わっしょい。わっしょい。わっしょい。……」

はちまきをしめ、大きな箱をかついだ大勢の男たちの威勢のよい掛け声が満願寺の境内にひびきわたった。

「なんじゃ。なんじゃ。ばかににぎわしいが」

近所の者たちは、おどろいた。

集団は、満願寺の境内へ入ると、門前でぐるぐる回り始めた。そのうち、ぴたりと止まったと思うや、大男が進み出て口上を始めた。

「やあやあ、大洞の皆の衆、ようく話を聞いとくれ。近頃、当満願寺の仏像が、毎夜私方の寺へ夢枕に立たれて、『我は大洞の満願寺にいる三尊仏であるが早くこの地を離れて、お前たちの寺へ入りたい』こう申されるのでこの通り、身代わり仏をお連れしたので、この寺の三尊仏をいただきたい」

岐阜方面から来た大勢の男たちは、金ピカの身代わり仏を箱から出して仏殿に祀り、大洞の『三尊仏』を箱に入れて立ち去った。

あっという間の出来事で村の者は、手の出しようがなかったという。

すり替えられ持ってこられた仏像だが、今ではすっかり満願寺になじんでおだやかに座しておられる。