生涯に十二万体の仏像を彫り、貧しい人々のために祈ったといわれる「円空上人」のことは、よく知られていますが、これからお話する「弾誓上人」のことは、あまり知られていません。弾誓上人は、武儀の里が生んだ偉大な宗教家であり、郷土の誇る偉人の一人でもあるのです。

弾誓上人は、今から四百年ほど前の江戸時代の初期、永禄年間に尾張(今の愛知県)海部の里に生まれました。

美濃津保谷の自慶菴の住職、林齊和尚にその才能を見出され、その生涯を厳しい修行に励んだ人です。

観音堂に籠り、木食といって、五穀をたち、木の実・葉っぱ・根っこだけを食べ、山野をかけめぐるなど寝食を忘れて苦行を続けました。

二十年あまりの修行の後、三十五歳になった頃、初めて全国行脚の旅にでます。

まず、近江(今の滋賀県)・京都を経て、一ノ谷の古戦場を訪れ、源平の戦いで亡くなった人々を弔いました。紀州(今の和歌山県)熊野本宮に参拝の後、四十歳の時、佐渡が島に渡りました。

佐渡での弾誓上人は、貧しい人々の心の支えとなりました。病気で苦しむ人を助け、佐渡金山の過酷な労働に倒れ、死んでいった人たちの遺骸を荼毘にふして、丁寧に弔うなど、世の中の不条理に苦しむ人々に尽くします。

また、佐渡壇特山の洞窟)に入り、念仏を唱え、木喰行を行なうなど、さらに求道の苦行を続けました。

四十七歳になったある秋の夜、阿彌陀如来が夢枕に現れて、
「そなたは、これから弾誓阿彌陀如来と名乗るように、その教えを授けよう」
そう告げて教えを説いだ後、どこへともなく消えてしまいました。

弾誓上人は、その教えを「仏説弾誓阿彌陀経」として人々に広めました。佐渡の人々は弾誓上人のことを「生き仏様」と呼んで、たたえました。

佐渡で数年を過ごした後、再び行脚の旅に出た弾誓上人。新潟を経て信州(今の長野県)に入ります。大町・松本・諏訪の村々を訪ね、阿彌陀仏の教えを説いでまわりました。

厳しい封建制度のもとで、どこへ行っても、苦しむ人、病める人は数多くありました。そんな人々のために、上人は、身を粉にして働きました。

救われたい、姿を拝みたいと訪ねて来る人は絶えることがありません。そんな人々のために、上人は、各地で草菴を結びました。今も大町には、弾誓寺、松本に念来寺、諏訪と飯田に阿彌陀寺として残っています。

数年間の信州滞在の後は、江戸に出ます。弾誓上人は、その年の冬五十三歳になっていました。箱根、塔の峰の洞窟にこもり、またも修行の道に入りました。

その一途でひたむきな姿に心を奪われた人物がいます。小田原城主の大久保忠隣でした。忠隣は、領地であった塔の峰一帯の山野を弾誓上人に寄進しました。寄進を受けた上人は、この地に阿彌陀寺を建て、いっそうの布教に努めました。またそのかたわら、塔の沢の温泉を発見し、貧しい人々が集い癒される場を開いたと言われます。

五十九歳になった弾誓上人は、郷里の尾張海部の里で、亡くなった母親の墓に詣でます。その足で、京都に向かい、大原古知谷に「光明山阿彌陀寺」を開きました。この地でも、上人は、信者の求めに応じて名号を墨書きし与えました。また、姿を彫った自刻像に、自分の髪を植えて、安置しました。

そして、慶長十八年の五月座ったまま合掌して静かに息をひきとりました。享年六十歳でした。

弾誓上人の遺言により、若い頃を過ごした武儀の里、自慶菴に、自画像と名号、三軸の掛け軸を届け、「光明山阿彌陀寺」にして欲しいと言い遺されました。

その時に届けられた三軸の掛け軸は、現在、寺宝として関市文化財に指定され、大切に保管されています。

その後、多くの木喰遊行者が、武儀の里に訪れました。そして、木彫り仏や金銅仏、泥仏を寺や民家に残しています。それは、弾誓上人への敬慕から生まれたものであることは、言うまでもありません。同時に、そうした人々を受け入れる村人の温かい心があったからだと思われます。

武儀の里に暮らす、そうした祖先の優しい思いを誇るとともに、これからも受け継ぎ伝えていきたいものです。

 

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