授業の最中だった、突然のサイレン、

「敵機襲来、敵機襲来」
「逃げて 急いで、急いで」
瀬尾先生の高い声。

廊下へ飛び出し校庭一面の芋づるに足を取られながら決められていた防空壕へ飛び込んだ。とたんにバラバラッと土の塊がおちてきた。

「キャーアー」
すごい悲鳴が聞こえた。

「しっかりして、しっかりして」
「手ぬぐいさいてー早くさいてー」

矢継ぎ早に聞こえる声にただ事ではないと思いこわごわ覗くと、血まみれの生徒がタンカで運ばれて行く姿が見えた。

「爆弾の破片が腹に刺さって腸が垂れ下がっていたらしい」
「あの優秀な倉知さんだと」

色々な言葉が飛びかっていたが、

「病院まで命がもたなかったらしい」

それを聞くと誰も何も言えなかった。こんな話を姉からぼう然と聞いていた。

一方、父母の勤務している那加の川崎航では、軍需工場がねらわれる恐れから、突然疎開命令が出た。有無を言わさず我が家も転居することになった。

行き場所は福井県鯖江市の山奥であった。一階二部屋の二階建て(二階は物置同然)粗末な家があてがわれた。

当時六年生の私と女学校二年生の姉と父母の四人暮らし、私は入試の最中だったが落ち着いて勉強もできなかった。

姉は午前中三時間の学習のみ、午後はラッカサン布織り工場で奉仕させられていた。
又、夜になると家では窓全体を黒い厚地の布で張りめぐらし電灯は更に黒い布でおおい光のもれを防いでいた。

毎食、茶碗一パイ位の雑炊か豆ご飯だけ、働き手の父も子どもと同じ量ではと、気遣って病気と偽り父親に食べてもらった事も今では思い出としてよみがえってくる。

決まって夜中をねらう敵機来襲に備えて、リュックサックに仏様の位牌や貴重品は親が、私と姉は豆いりや切り干し、お茶を入れた水筒タオルなどを入れて枕元に置いて寝る毎夜だった。

こんなくり返しの生活の連続に睡眠不足が積み重なって体力は日に日に減退していく自分がわかった。子ども心にいっそ直撃でも受けて死んだ方が楽だとさえ思ったこともたびたびであった。

次の日だった。緊急事態が起きた通報があり、防空壕へ逃げて行く途中

「パーン、パーン、パーン」

竹がさけるような音がした。立ち止まって西方の空を見ると、真っ赤にそまりだんだん明るさが広がっていく。

「ありゃー福井市の中心部じゃ」
「爆弾がいくつも落ちたらしい」

次の朝、近所のおばさん達が、
「やっぱりゆうべは、福井の中心、県庁のあたり一面がひどいもんだと」

そんな話でもちきりだった。そんな折、隣の山本さんが、
「在所の家の様子を見に行ってくるわ」

防空頭巾を肩にかけ、気を張って出て行かれた。

近所の人達とどうやったやろうねと気にかけて待っていたら、夕方トロトロと気のぬけた歩き方の人影が見えた。

「どうやった」
「山本さん」
「しっかりして」
と言うと

「ワー。」
となきくずれて倒れてしまった。

その会話や姿は今でもやきついている。

朝になると急に父が呼び出された。

「岐阜の本社がやられたとのこと、すぐ視察に行って欲しい」

地下足袋はいてリュックサックを背負って出かける父の後ろ姿を見送る時の心境は実に切なかった。

一週間待っても帰らない。やっと眼ばかりになって帰った父の姿は実に痛ましかった。

「岐阜市内は、丸焼けでコンクリートの外壁ばかり、人も馬も重なり合い、その上に電信柱が倒れかかり、まるで地獄のようだった。歩いて歩いて人に助けられ、やっと乗り物に拾われて命からがら帰って来れた」

そう語る父の話に、涙がこぼれた。

朝から油蝉が、

「ジージージー」

と鳴いている。何もすることがなく寝ころんでころがってみる。

青い空、庭のさるすべりの花が、濃いピンク色をつけ、空の青さとのコントラストが美しく、今までそんなことに目を向ける余裕もなかったのかと不思議な気がした。

「アーアー。」

ひとりため息をつく。

疲れきった心の奥からもう国の終わりだと神仏が知らせて下さっているかのような錯覚におちいった。

そのすぐ後だった。ラジオから流れる天皇陛下の玉音を聞いたのだ。

「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んでよくつくしてくれた・・・・・」

切々たるそのお声に、体が硬直した姉は玄関につん立ちで泣いていた。私は涙も出なかった。

工場は閉鎖され音もない。もう郷里へ帰るほか術もない。夜中じゅうかかって主たる物を荷造りし、手続きをとると、急いで鯖江駅へ向かう。いつ来るとも知れない汽車を暗い駅で待ち続けた。新聞紙一枚を敷いていた侘しさは言葉にならなかった。

岐阜駅へ着いた時の喜び、母がいざという時にと、とっておいた米つぶのにぎり飯、リュックサックの中から出した母の姿を子どもながら賢い母だと感謝した。が変な予感がした。

母が、にぎり飯の包みを開こうとした時、人の影、影、影。四方八方から焼け出された子どもや大人の群れにかこまれていた。やることも食べることも出来ず、母はとっさに包みをリュックサックの中にほうりこんでその場を立ち去った。

その後、私は長良在住の親戚から通学させていただいたお陰で今日がある。

当時、長良河畔の住居は、全部アメリカ兵の家族にあてがわれ白ペンキで塗り変えられた。

以後、何年続いたかは定かではないが、今ではすっかり昔の姿を取りもどして来ている。

以来、武儀の安住の地で幸せに暮らさせて頂いている。七十年も前の戦争当時の記録である。

 

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