出征した父とその家族(多々羅)|武儀の語り草 -昭和・平成編-
昭和十九年十一月は絶対に忘れられない。突然父に一枚の赤紙が来たのだ。
出征の日は寒い木枯らしが舞っていた。
玄関に並んで、
「お父さん、体に気をつけてください」
母は、やっとそれだけ言って見送った。
私は、
「お父さん」
とだけ言って、必死に手を振った記憶しか覚えていない。
配属地は、満州の北東部(旧ソ連国境に近い極寒の地)。冬の寒さは、マイナス三十度を超え、川には四十~五十センチの厚い氷が張る寒冷地とのことであった。
「きっとものすごく寒いやろうなぁ、お父さんは元気でおるやろうか」
家族みんなで、戦地の父を気遣った。
戦地から母宛に届く便りの中には、家族を思いやるいたわりの言葉ばかりが書かれていた。
「お父さん、こっちのことばっか気にしとるんやなぁ、苦しいことがいっぱいあるやろうに・・・」
母の読む手紙の一言一言をただ黙って聞いていた。別れた時の父の面影に涙がにじんだ。 当時の農家は、家畜(ウサギ、ヤギ、鶏)を飼っていて、子どもの仕事は多かった。
家畜の餌の草とり、木の葉集めは日課であった。鶏の卵は農協へ出荷して、祭りの時にしか口へは入らなかった。夕方には、ヤギの乳しぼりをする。一日六百~八百CCくらいしぼり、近所の乳児や弱い人に売り、残ると少し飲めた。
「お父さんは戦地で苦労してござるんやで、これで我慢してね」
そんな母の言葉を聞くと、少しも苦しくなかった。
一家の現金収入源は、養蚕だった。桑摘みや蚕の底替えや、「回転モズ」に蚕を拾って入れること。「繭かき」など、子どもも手伝えることが多かった。でも特に、嫌だったのは、すがきの蚕を拾う時である。手に五、六匹拾うとグニャグニャ動く蚕の感触の気持ち悪さ。
「わー、おそがい、こわいよう」
声をあげて叫んでも、誰も相手にしてくれなかった。上等の繭だけ出荷して、うす皮や大繭(二匹入っている)は「手引機」でカセ(糸を扱う時の形状)にして糸屋に売る。くず糸は、はたおり機で布を織り、家族の着る物を仕立てた。
軒下では、布を織るはたおり機の音が絶えることがなかった。お母さんはせっせとよく働いた。その姿を見ると少しでも母を助けたかった。
もう一つの収入源は、秋の松茸だった。朝五時起きで山へ出かけ、それから登校した。上等の松茸「丸とかツボミ」は、農協へ出荷。
「ヒラキやクズ」は、焼いたり煮たりして食べた。
その他、「ロージ(きのこの一種)」のショウガたまり焼きや、ソウナの酢みそ和えなども豊富で美味しいご馳走だった。
その松茸も、昭和三十四年の伊勢湾台風以後、全くでなくなってしまった。
春休みは、山へ薪作りに行った。お弁当は、麦ご飯にたくあんや、豆味噌に生ワケギが刻んで入れてあった。それがまた格別うまかった。
夏休みは、桑畑に敷く草刈だった。草の間には、だいだい色の「オゼンバナ」「キキョウ」「ナデシコ」「オミナエシ」「リンドウ」「ハギノハナ」など、いっぱいあって、色々つんで楽しかった。
秋になると、綿を摘んで「ロクロ」と言う繰り機で種子を取り出して布団や半てんやでんちこを作ってもらった。本当に暖かかった。
「こんな『でんちこ』をお父さんに送ってやりたいなぁ」
私が言った言葉に、母はそっと涙を拭っていた。こんな言葉言ったらあかんなぁと子どもながらに思った。
冬は、木槌でワラを打って縄をない、ワラ草履やすがいを作って農作業の用意をし、ほとんどが自給自足の生活だった。
村役場から衣料切符が出ると、糸やゴムやボタン類が買えた。集会所で、石けん、醤油、砂糖など配給された。ゴマを乾燥させると食用油と交換してもらえたので助かった。
こうして、本土に残された家族は、一生懸命に難関を乗り越えて来た。しかし、父は尊い命を国に捧げて帰らぬ人となった。
わたしは、以後、遺族会役員となり、毎年靖国神社に参拝し、亡き父と無言の対面を重ねている。
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